言説が社会を動かす!専門家が語る言葉の力|日本女子大学 遠藤知巳先生にインタビュー


日本女子大学
遠藤知巳先生


東京大学文学部社会学科卒業。東京大学大学院社会学博士課程卒業、東京大学社会情報研究所助手を経て、日本女子大学人間学部専任講師、助教授を経て、同大学人間社会学部教授。博士(社会学)。専門は近代社会論、言説分析、メディア論。主要著作、『情念・感情・顔:コミュニケーションのメタヒストリー』(単著、以文社)、『フラット・カルチャー:現代日本の社会学』(編著、せりか書房)など。

1.聞きなれない言葉、「言説」の基本概念とは?

「言説」という言葉のおおもとは、仏教語の言説(ごんせつ)であると思われます(非言語的な悟りと対比された、言語を介した認識(分別智)の意)。日本語に入っていったのは江戸期のようで、「物を言うこと、言葉でもって表現すること」を意味するようになりました。

明治以降、政治言論という意味合いに加えて、小説などでも使われるようになります。そこでは、「彼はしばしば人を揶揄する言説を弄する」、「芸術家の言説は、私の耳を喜ばせた」のように、「(少し変わった)物言い、言い回し、あるいは主張」といったニュアンスを帯びています。「聞きなれない」かもしれませんが、きっと書き言葉としては多くの人が出会ったことがあるでしょう。

そして、この言説という言葉が、フランス語のディスクール(discour)の訳語として採用されました。言説(ディスクール)という概念は戦後フランスの言語学でも用いられましたが、決定的だったのは歴史家・哲学者ミシェル・フーコーの影響です。

学術用語としての言説は、「言われたこと、語られたこと」という具体的な出来事やその集まりを意味しています。口頭の発話や書かれた言葉だけでなく、さまざまな媒体で記録・製作されたものも、原則的にはすべて言説として扱われます。

この概念のポイントは、言葉の背後にいる語り手や使用者の意図にその言葉を帰着させず、ひとまずはすべて言葉の配列として捉えるという視角にあります。単語の数は非常に多く、組み合わせ方も自在ですが、その一方で、特定の社会のある時代において、主題となっていることやその語られ方は意外と定型的であるともいえます。

言い換えれば、さまざまな言葉は、それらをあらかじめ枠づけるジャンルのもとにあります。ジャンルというと、静態的で平面的な区分に聞こえますから、多層的な網目と言うべきでしょうか。

そうした網目の作用が交錯し、綱引きしあうなかで、主題やそれを表現する言葉が定型化するわけです。あるいは、いくつかの言葉が網目のなかで強く結びつけられ、その結びつきも定型化していきますから、「主題」とは、一連の言葉の結びつき、まとまりであると考えることもできます。たとえば、教育問題や環境問題など、「社会問題」として語られるものは、それらに関連すると考えられる一群の語彙の定型的な配置として現れます。
網目は必ずしもはっきりと見えませんし、時間とともに変化しうるものです。そのため、異なる時代で同じ言葉が用いられていても、同じ意味で用いられているとはかぎりません。言説という概念は、こうした網目を描き出すために設定されています。

2.言説と社会には密接な関係がある?

日常的感覚のなかでは、言葉は、それを語る人の意図を表現するための道具のように見なされています。言葉を用いるのは個人だけではなく、さまざまな組織・集団が記録文書を内部で蓄積しつつ、他の組織や人々とやりとりし、情報公開や広報を行います。

社会全体に強い責任をもつと思われている政府や省庁、裁判所や公共団体等が発出する言葉は、非常に公的性格が高いとみなされます。これらが重なって、「社会」全体が言葉を発しているようにも見え、「社会のなかでこのように語られているから、今の社会はこうなっている」というように捉えられることが普通でしょう。普通の意味での社会科学もまた、この感覚を方法的に精緻化することで成り立っています。

これに対して、言説分析は、「何らかの外部実体が『このようなかたちで』『ある』と思う感覚自体」が、特定の言説編成のなかで生み出されたのではないかと考えますこうしたやり方は、現代を含む近代社会に対する深い批判に根差しています。

フーコーの場合、言説の配置の向こう側に権力の作用を見ようとしました。近代社会は、権力が剥き出しの物理的強制力(暴力)として出現することに対して慎重であり、権力者が犯罪者を気ままに捕えて見せしめの刑罰を与えたりはしません。そのかわりに、権力作用の周辺に大量の言葉が随伴するようになりました。

犯罪を証明し、裁く過程は、多くの文書を経由する必要があります。犯罪の理由が環境要因なのか、それとも何らかの個体的特質に基づくものなのかが観察され、その記録の集積が新たな政策を生み出していきます。狂気/正気、異常者/正常者といった分類を中立的であるかのように流通させることで、監視や矯正や排除が日常的かつ隠微に働いているといえるでしょう。

こうした作用のなかで、人々は分かりやすく抑圧され、自由を制限されているのではありません。むしろ、「これこれは私のものである、私がしたことである」、「私は〇〇という者である」と自己申告し、それに自発的に従うかぎりにおいて、「責任ある」個人主体としてふるまえるのです。

あるいはむしろ、そのようにさせられているともいえます。フーコーはこのしくみを主体化(assujettissement)と呼んでいます(何かしでかしたら、子供は反省文を、大人は始末書を書かされますが、それらが何を期待しているかを考えてみればいいでしょう)。

打ち倒すべき圧制者がいるというより、人々自身が作り上げ、そして埋め込まれているあらゆる関係のなかに、権力は遍在している、というわけです。

穏健化と表裏一体の、ある種の息苦しさ。近代(現代)社会の一つの様相を、見事に捉えた議論です。フーコーがもてはやされた理由も、たぶんこの権力論が一番大きかったと思います。

とはいえ、近代社会の権力がそういうものだとして、それは良くも悪くも当たり前(ノーマル)な状態ではないでしょうか(正常化(ノルマリザシオン)こそ近代の言説である、と彼は言うにちがいありませんが)。

人々を分類する「中立的」な言葉が危険なものでありうるのはたしかですが、少なくとも、圧制的な社会よりはましなのではないか。こうした疑問も浮かびます。

理論的に言えば、言説を垂直に貫く作用を単一的な「権力」として名指してしまうと、結局は言説の産出原理と同じようなものになるのではないか、ということです。

フーコーはニーチェを援用して、権力と抵抗とは永遠にお互いを生産しつづけると指摘することで、そこから逃れようとしていますが、権力のもちこみは、言説という視角をじつは平板化しているところがあるかもしれません。

「権力」というと、どうしても「権力批判」するのが正しいように、自動的に見えてしまう。それもまた、言説効果でしょう。もちろん、権力批判が有意味である局面もありますが。

何らかの外部実体と結びついているかのように見えることで、言葉が「自然であるかのように」流通していくことが、社会の根幹的しくみの一つである――言説概念は、これに迫る道を切り開きました。徹底的に言葉の連なりを追うなかで、自然的態度による思考停止(フッサール)を幾重にも解体し、反省を迫る言説分析の豊かさは、必ずしも権力批判に帰着させずとも、私たちの社会認識に十分に活かすことができると考えています。

3.言説によって私たちの知識は構築されている

人は誰でも、自己の経験によって獲得した知識をもっていますが、それがカバーする領域は大きくありません。知識の大部分は、自分が直接には経験していない事柄に関するものです。

それらは自分以外の人々の知見の再構成であり、私たちは書物等を通して、それらを受け取っています。自分の目で直接確認していないのに、たとえば自然科学の法則や、地図的な俯瞰的把握を事実だと信じていられるのは、考えてみれば不思議です。

自然科学については、検証手段が確保されているので一応は問題ないということになっています(研究の先端ではまだ決着がついていないのだけれども、それでは素人が困るので、例外事項などを丸めて「これが客観的事実」としていることも多いですが)。

しかし、そうではないもの、たとえば多くの人が共有している信念が「知識」として伝えられ、「みんなが言うから/本に書いてあるから正しいのだろう」と何となく受け入れられ……という過程のなかで、何度も上書きされているだけ、ということもあります。人々からなる社会を扱う社会科学は、そういうあり方と付き合いつづける運命にあります。

また、自己の経験に基づく知識といっても、すでに何らかのかたちで経験のしかたを教えられていることも少なくありません。観光に関して、ガイドブックに載せられた既知のイメージをなぞるかたちで「経験」しているだけではないかという批判は昔から繰り返されていますが、いろいろな局面で事前説明やマニュアルを装備するようになった社会では、ますます多くの経験がそうなっているとも言えます。

このように、自己の経験を経由している、いない、どちらであれ、知識は社会的に構成されているか、もしくはその作用の影響を受けています1.で述べた「主題」の定型性は、たいていの場合、特定の知識体系のなかで反復強化されることで広がっていきます。

フーコーの議論でいえば、精神医学や犯罪法学等の学問分野(ディシプリン)と、社会における規律(ディシプリン)の展開とが強く連動していた、という話です(ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』)。

重要な視点だと思いますが、現代社会における知識の位相を考えるには、他にも考えなくてはいけないことがあります。マスメディアの発達の果てに、インターネットが日常化するなか、人々は日々押し寄せる情報の洪水を押し分けるようにして生きています。

情報が多すぎるからこそ、送り手と受け手の双方の側に、それらを単純化して定型的な言葉/主題(=言説)に流し込もうとする欲望が高まりますが、そうした言説が切り取られ、そこにあやしげな内幕情報の暴露や、コメントする人たちの「言説」――言論活動系のSNS利用者が、「誰それのこういう言説[は矛盾している、けしからん]」という表現用いているのをけっこう目にするようになりました。ディスクールというより、「変った物言いとしての自己主張」という、古い意味での「言説」に回帰しているところもあります――が呼応し、積み重ねられて、乱反射していきます。

人々は、大量の「知識」や「言説」の断片を拾いながら、自分の知識を調整しつづけているところがあります――こう書いている私自身も含めて。現代の人間は、誰もそこから逃れられません。

社会的に構成された知識の多くが、定型的な「主題」や「問題」や「キーワード」からできていることは、今も変わりませんが、こうした乱反射のなかで、その言説効果ははるかに錯綜としています。

言説の多重的解体が、ますます重要になっている所以ですが、しかし同時に、そうした効果もまた断片化している、つまり、「それが定番の言葉/主題であること」も見えやすくなっており、そのうえで、とりあえずは半身で、流し気味に「受け取ってはおく」。現代においては、むしろそういうかたちで「言説効果」が働いています。この様相をどう考えていくかが一番クリティカルな問題です。

現代社会における言説の現在形も、そこにあるのではないでしょうか。